モーニングショードットTokyoのブログ

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母親は「義眼」だった!父親も「身体障がい者」だった事実!!

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しぶりに、「両親の想い出」をテーマに2回目の回想を書いてみたい。

父親は、大正の最後の年で昭和に変わる直前に生まれたので、いわゆる昭和元年扱いになる。母親は昭和4年生まれだった。二人とも現世では仲良くなく喧嘩もよくしていた記憶がある。それがドッコイ、二人の命日は1月23日と同じで、示し合わせたかのように亡くなった時刻も3分違いだった。これには驚いたが、残された家族への最後の配慮か『法要』がまとめて営めることに気遣いしてくれたとしか言いようがない。

 

二人とも田舎の農家に生まれ、時代が時代だけに沢山の兄弟姉妹がいた大家族だった。父親は長男、母親は二女だった。

 

の二十歳前はちょうど第二次世界大戦の最中だったが、身体を悪くしていたので徴兵は免れたようだが、九州の炭鉱に労働者として駆り出されたらしい。

炭鉱での生活が思わしくなかったのか、帰県後も体調がすぐれずそのまま当時流行していた『肺結核』に罹患し数年間  療養所生活をした。そうこうしているうちに、不治の病だったが特効薬のお蔭で完治したそうだ。

 

ただ、投薬以前に悪くなっていた片方の肺を外科手術で、全摘したことにより第二種身体障害者(5級・胸かく成形術施行による左肩関節機能障害)の手帳を持つことになった。当時は、5級で「日本国有鉄道旅客運賃減額」の措置が付いていたようだ。

 

は、小さい時から男勝りの気性が荒い性格だったようで、近所の男友だちとよく遊び、用水の橋の上から飛び込んでみたりジャジャ馬娘だったそうだ。当時、農家だったので『麦』も栽培していたが、麦の穂が実りをむかえた秋口に、麦畑で遊んでいた時に運悪くあの鋭い麦の穂先で、左眼を突いたらしい!慌てて当時の母親(母方の祖母)が、県内でも有数の眼医者に連れていったが、当時の医療技術では全摘しかなかったのか、私の母親の左眼は小学校低学年でガラス玉の義眼となった。

 

両親二人ともが身体障害者であったことは、幼い私たち兄弟はつゆ知らず、小学、中学で何かあるなぁとは思っていたが、高校生になって改めて確信に変わった。今では両親に感謝するくらい他の家と全く違和感のない不自由のないあたたかい家族生活を送ってくれた。今では感謝しかない!

 

の身体がおかしいと感じたのは、小学生の頃、一緒にお風呂に入った時に、背中側に大きく30cm程の縦にスジ(縫った跡)が入ったキズがあり、大きく肺の辺りがえぐられたようだったので、「何か大きな手術をしたんだなぁ」と思う程度だった。

 

の場合は、非常にショックな成り行きで耳にすることになった。まず、中学の同級生の女子から、その子の親に教えられたのか、私に「◯◯ちゃんのお母さんの眼って義眼らしいなぁ!」って面と向かって言われた。本当に小さな子供は残酷だがそれが当時では当たり前のような時代だった。

それとほぼ同時にそれを裏づける母の行動があった。確か高校の夏休みの昼間に洗面所にいる母が何やら眼の辺りに手を当てモゾモゾしていた。一体何をしているんだろうと気にはしていたが、よく見るとガラス玉のような物を取り出し、たぶん『塩』で丹念に洗っていた。私はそれを「ジィーっと」隠れて見ていた。

 

高校生だったが、子供心に気まずかったので、そこはそっと見ぬふりをしてやり過ごした。

 

そもそもの左眼が義眼にいつなったのか、またどうしてそうなったのかなどは、ここまでだいぶん前から知っていたように書いてきたが、この二つの疑問は、平成22年に母親が亡くなった後の法要の席で、高齢の長女のおばさんに尋ねても教えてくれないかもしれないけど、今ここで聞かなければ真相を知る人が誰も居なくなると思い、一か八か尋ねたら、すんなりといつから、どうしてなったを教えてくれた。その内容が「麦の穂先」だった。

 

片眼が完璧に見えないっていうことは、遠近感が分からないはずなのに、庶民に車ブームが巻き起こった時には、真っ先に真っ赤な日産サニーを、ど田舎で乗り回していた程の『豪放磊落(ごうほうらいらく)』を絵に描いた様な私にとっては頼もしい母親だった!

 

それと言い忘れないうちに、、、両親は当時としては珍しい『恋愛結婚』だった。

 

療養所の患者と看護婦(今の呼称は「看護師」)のほのかな恋が始まりだったのかなぁ!?そこんところは今では誰にも分からない。

 

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